日系移民100周年記念
日系3世 マルコス・ミヤキ氏によるナチュラル(非水洗式)ブラジル
私がコーヒーに初めて関わりを持った頃、ブラジルでとんでもない大霜害がありました(1975年~1980年頃)。伝統的なコーヒー生産地パラナではコーヒーの木は殆ど全滅。コーヒーの相場は世界的に高騰し、コーヒーに携わる者にとってはとても厳しい時期を過ごさねばなりませんでした。
しかし、当のブラジルの生産地ではそれどころではありません。とにかく、全く収穫が出来ない悲惨な現状がそこにはありました。
ミヤキ家の開拓移民の歴史は1930年代、第一次世界大戦後、祖父母が福島県からブラジルでの新生活を夢見てパラナ州のコーヒー農園に辿り着いたことから始まります。父である故ヨシオ・ミヤキ氏はパラナ州に小さいながらも農園を持ちましたが1975年の大霜害に遭い、コーヒーの木が全滅するという困難に遭います。一家は長年住み慣れた土地パラナに別れを告げ、未開の台地「セラード」に向ったのです。
1978年、セラードに移り住んだ時、マルコス・ミヤキ氏は6才。17才で農学校を終了し、家族から受け継いだ知識を深め、父を手伝いシャローン農園で働き始めました。シャローン農園はセラード地区の中でも最も美しい地域、死火山の中のミナス・ジェライス州シャパロン・デ・フェーロに所在している。霜害のリスクが少ない地域とは言え、痩せた土地でコーヒー栽培には適さないと言われていた「セラード」で、有機物を丹念に取り込み、土壌から改良し、コンテストで入賞するようなコーヒー豆を生産できるようになるまでに親子2代の時が流れました。
私が最初に出会ったセラードのコーヒーはどれも水洗式によって精製されていました。クリーンな味の印象はあるにしても、伝統的な非水洗処理によって精製されたブラジルコーヒーのイメージからはあまりにもかけ離れており、また、コーヒーの木がまだ未成熟であった事も原因かと思われますが、味に深みが無く、「ムンドノーボ」という品種自体に疑問を持たざるを得ませんでした。
しかし、最近出会ったミナス州セラード地区で生産された優秀なコーヒー豆は、今までのセラードコーヒーの私のイメージを覆すのに充分な魅力を備えていました。
オイルショックの強烈な経験を経て日本政府はブラジル政府との合弁事業という形を取りながらも、国策としてセラード開発に乗り出しました。「セラードを日本の食料基地に!」のスローガンのもとセラード地区を開発していった日本人たち。当時多くの人が「もう日本は駄目だ!」「コーヒー豆などという贅沢品はもう買えない!」そんな空気の中でブラジルに活路を求めたコーヒーマンたち。。大きな夢と野望を胸に未開の大地に挑んだ勇気には敬服します。
しかし、20年余りの間に事情は大きく変わりました。オイルショックを技術力で克服した日本はさらに発展を遂げ、また農産物自由化の流れの中で、安価な農産物が世界中から日本に集まるようになってきました。もちろんコーヒーも例外ではありませんでした。
結果としてコストの高い開発になってしまったのか?・・・という疑問は残りますが、ほとんど生産性の上がらない不毛の大地(セラードCerrado)が一大穀倉地帯に変わったという事実。そして何よりもブラジルの国益にも貢献している、という点は無視できないと思います。この地域には今でも南部からの開拓者が流入を続けているそうです。
日系移民100周年に関することより、セラードに関する書き込みになってしまいました。
ちなみに100周年は来年2008年ですが、先駆けて販売いたします。